「踊る小人」の書評

ケンドル・スチュワート

 目覚めた時に、見た夢への反応は多様だ。恐怖や快感や喪失を感じられる。夢の意味を探そうとできる。あるいは夢を忘れることもできる。昔から、人々は夢を解釈している。判断に揺れるときに、答えとして夢を使って決心したり、夢が自分の本当の気持ちを表すだと思ったりするケースをよく聞く。しかし、よくわからない脳に生み出された夢の意味を明かそうとしたら、誤解することが多いのではないだろうか。ジークムント・フロイトに創始された夢分析と精神分析はそうだと思う。夢分析をやっている人は、誰かの無意識を真にわかるより、夢のことをよく説明できない言語で伝えられた不思議な話を聞いて対応するだけである。その話は、正確な「意味」があるというより、曇った夢の感情を伝えようとする。つまり、夢から覚めれば、分析できない感情しか残っていないと思う。
 夢と超現実主義は深い関係があるわけで、超現実的な芸術品も分析しないで夢として経験して、感情のみを吸い込むべきである。村上春樹の作品をこのように読めば、「よくわからない」となげく必要はないし、踊る小人のように、自分の感情が作品にあやつられることを楽しめるかもしれない。
 踊る小人といえば、その話に表された多元的自我は、村上春樹が夢を分析できないと思っていることを示すのだろう。夢に住んでいる小人が皆の感情をあやつる力は夢に生み出された感情に似ている。その感情がどうやって夢に生み出されたという質問に答えがない。それに、小人がどうやって踊りで感情をあやつれるかという問いに答えがない。警察も小人を捕まえられない。なお、「分析」という言葉は「分ける」と「析く」(割く)という言葉から成り立っている。多元的自我の考え方では、自分が自分に住んでいる他人を切り離せない。それに、切り離す必要がない。踊る小人は皆の無意識、夢の世界、超現実に住んでいて、感情を生み出したりあやつったりできるもう一つの自我である。そのものを切り離して、析き分けて、分析することはできない。結局、村上の作品から覚めたら、つまり、作品を読み終えたら、分からなかったままであやつられた感情を吸い込んで楽しむほうがいいと思う。