『こころ』の書評

ツァイジミー

  夏目漱石の『こころ』は悲観的に人間心理を観察し、結局責任を逃れることをめぐって、「死」という解決方法しか見えなく、ますます本質の「死」に至る悲劇である。
  この小説をはじめから読むと、読者だとしたら多分誤って先生とナレーターとの信頼関係についての作品と思い込むかもしれない。しかし、小説の途中から、突然Kの自殺をきっかけに、全体的な感じは「死」が中心になった。
無論、Kの自殺は、どれほど考えても、先生に一部の責任はある。その一方、Kは生きていたとき、お嬢さんと曖昧な関係に陥っても、愛の告白しようとしたことはぜんぜんなかった。もし、Kが自分の感情を誠実に表していたら、多分自殺することすら考えなかったかもしれない。しかし、Kは結局自分の「意志薄弱」に敗れ、死を介して自分の感情に応じる責任を逃れたのだと私は思う。だから、Kの死はすべてが先生の責任ではないだろう。
  その後、先生はKの死因を自分の行動に繋げ、Kの死が先生を悩ませた。これに対する解決方法は一つしかない。妻にKの死因を打ち明けることだけだ。この罪の自白は罪を償う責任だが、先生はそうする勇気がないので、結局、自殺した。
これから分析すると、Kと先生の共通点が明らかになる。Kも先生も責任を逃れた人物で、二人とも三角関係の曖昧さを全く解決しようとしなかった。しかし、このような「曖昧さ」は『こころ』の中だけで現れるのではなく、日本社会の中にありふれている。つまり、『こころ』の一部のテーマの「曖昧さ」は当時の日本社会を描写していると言えるだろう。伝統的な日本文化に沿って考えると、日本人は誰にも本意を表さないまま交際できる民族なのだ。しかし、Kと先生はこのような思想に害され、二人とも自殺することが唯一の解決方法のように見え、自殺した。
  『こころ』の本の中には書かれていないが、この小説をもとにしているビデオは最後の部分で、先生の妻も自分の罪に対して「自白した」。先生の妻は確かに先生に、冗談めかして、殉死の案を提したが、それは彼女の罪ではないだろう。彼女の罪は、三角関係の中で「男の人の二人は同時にあたしを愛している」と考えて、ずっと求められている女性としての立場を享受していたことだ。無論、彼女にとって、このような曖昧さを続けたら、この男の人の二人とも自殺することとは思いも寄らなかったが、彼女は最後に、自分の罪に気が付いたはずだった。(だから、彼女はビデオの最後で「自白した」。)
  しかし、現代の日本社会はだんだん変わってきて、若者は『こころ』の「死を介して責任を逃れる」というテーマを是認できない。私にとって、死は責任のない手段で、何も解決できない。そして、先生はまことに罪を悔い改めるようと決心するなら、天寿を全うするまで、日々自分の行いを悔いるほうがもっと適切だろう。そうすると、死んだKに敬意を表すこともできる。
  結論といえば、先生が生きていた時代の中で、罪を悔いる唯一の方法は自殺することしかなかったということである。しかし、そのような思想は時代にそぐわなくなった。だからこそ、先生が属していた明治時代とともに生涯を終わるのは、時代の変化を象徴していると私は思う。