心と自我

ジャリリ・イーマン

 「アイデンティティは複雑である。」この言葉はなぜ人々がこのアイデンティティという概念に問題があるかを説明している。自己喪失、では偽のアイデンティティや自分のアイデンティティを見つける、あるいは作るというコンセプトが存在する中、自分の性格、そしてアイデンティティを理解するために人々はこのアイデンティティというコンセプトを長年論議してきた。そして、それを理解し説明できる人々は自分自身の行動もよく理解しているようだ。ジークムント・フロイトはそのアイデンティティと行動の関係というコンセプトをもっと理解するために人間の精神を三つの部分に分類れた。その三つは自我(英:Ego)、イド(英:Id)、と超自我(英:Superego)である。そして、その三つは人の心の中にある戦争を表す。「こころ」という小説で、夏目漱石はイメージと隠喩の通り、このアイデンティティとイド、つまり心の望み、というコンセプトを説明している。夏目漱石は先生をイドとして利用すると同時に、「影」を超自我か文化的な規則として利用する。それから、その二つの止まらない戦いも見せる。先生が自分自身と周りの人々のために一番いいことをしたいと夏目漱石は説明する傍ら、先生の欲求に対して反対する影も示す。その影は社会の標準と習慣を象徴している。最後に夏目漱石は社会と社会の標準を強く批判する。それは先生はその影から逃げようとするも、その影は自殺という形で先生を殺してしまう。
 夏目漱石は先生と影の戦いを何回も描写する。戦いは先生とお嬢さんの結婚後、始まった。「私も幸福だったのです。けれども私の幸福には黒い影が随ついていました。私はこの幸福が最後に私を悲しい運命に連れて行く導火線ではなかろうかと思いました。」と先生は称している。結婚してから先生はその影の存在も影の力も理解し、うれしいと説明する。つまり、先生のイドは幸せを感じ取るがその影は先生を悲しみに導いてゆく。行き先は崖であると知りながらもその巨大な影は彼を圧倒してしまう。彼は義母がなくなった後に自分自身に関して再考し影の存在を再度説明する。先生は「私の後ろにはいつでも黒い影が括っ付ついていました」と書いた。
 「お嬢さん」としばらく過ごしてから、影は先生の心にさらに深く進入し、静かに彼のこころを圧倒してきた。先生は苦闘をこう説明する。「私は一層思い切って、ありのままを妻に打ち明けようとした事が何度もあります。しかしいざという間際になると自分以外のある力が不意に来て私を抑え付けるのです」。先生は自分の中にある苦しみをお嬢さんに告白したい望みを持ちながらも、できないでいた。「自分以外のある力」に降伏してしまう。また、手紙を書き続け、なぜまたちゅうちょしたか理由を書いている。「純白なものに一雫の印気でも容赦なく振り掛けるのは、私にとって大変な苦痛だったのだと解釈して下さい。」と。だが先生の行動はお嬢さんに明らかに苦痛を与えているのを読者は理解できる。その影は不合理な論理を使い、先生を操る。人は超自我から逃げることはできないのである。先生は本を読み、逃げようとしたがそれもまた無念に終わる。「書物のなかに心を埋めていられなくなりました」と彼は言っている。お酒も同じである。つまり、その影から逃げるのは無理だが、癒す方法は存在する。勇気を持ち生を選ぶか死を選ぶか,じぶんしだいである。
 実は、先生は影と戦おうとしたこともあった。
「「死んだつもりで生きて行こうと決心した私の心は、時々外界の刺戟《しげき》で躍《おど》り上がりました。しかし私がどの方面かへ切って出ようと思い立つや否《いな》や、恐ろしい力がどこからか出て来て、私の心をぐいと握り締めて少しも動けないようにするのです。そうしてその力が私にお前は何をする資格もない男だと抑《おさ》え付けるようにいって聞かせます。すると私はその一言《いちげん》で直《すぐ》ぐたりと萎《しお》れてしまいます。しばらくしてまた立ち上がろうとすると、また締め付けられます。私は歯を食いしばって、何で他《ひと》の邪魔をするのかと怒鳴り付けます。不可思議な力は冷《ひや》やかな声で笑います。自分でよく知っているくせにといいます。私はまたぐたりとなります。」と先生は話す。しかし、引用が説明するようにその戦いは無駄だった。最後に、彼はそれを実感して自分のことを殺す、つまり自殺しようと決める。夏目漱石がここで説明しているのは社会の目的は人を抑圧するという事実である。
 超自我は行き続けるために大事なことであり、その頭の中にある声を聞くのは大丈夫だと思うが、従っていいわけではない。超自我は未来のことに関して考えない。いまの望みだけが超自我の問題である。だんだんと心は弱くなり、死ぬ。そして、夏目漱石が彼の文学作品であらわしているのは誰にも一番大事なものは心であるということだ。