『蛍』と『ノルウェイの森』の書評

ヴィ・ドー

  私はこの前に村上春樹の『踊る小人』を読んで、面白いと思ったが、その時村上春樹の作品をもっと読みたいという考えは頭をよぎったことはなかった。だが今度の作品は『踊る小人』と共通する特徴やテーマなどが含まれているが、全然違う感じで書かれ、シュールレアリスムはまったくない。『蛍』と『ノルウェイの森』の最初のところを読み、村上春樹の恋愛小説系を初めて味わって、興味を持ち始めた。私は元々恋愛小説が好きなので、興趣を持つようになったのはそのせいなのかもしれない。だが村上春樹の作品はこのクラスで今まで読んできたものと比べると、日本語を学んでいる学生として見て特徴のある魅力を持っている。村上春樹の書くものは読みやすいし、読者に考えさせるし、やっぱり簡単に言うと面白いし、多くの人を引きつけやすいものだと私は思う。
  文体的には『蛍』と『ノルウェイの森』は『踊る小人』のように一人称で書かれ、主人公の「僕」が何を考えているのかを覗(のぞ)き込んだり、彼の気持ちに共感したり出来る。村上春樹の作品には描写シーンが色々あり、本当にきれいで適当な言葉が注意深く選ばれたりしていて、弁が立つ作家である。あるシーンは「僕」が五月の日曜日に「彼女」に偶然に会ったところで、村上春樹はその日の天気についてとても美しくて鮮やかな絵を言葉で描いた。そしてスタイルのもう一つの特徴は、あまり人物の行動や言っていることなどに関して説明したり解決をはっきり書いてくれたりしないことである。この特徴は間違いなく読者に考えさせるためだと私は思う。他に文体の特徴は作品中、主人公は頻繁(ひんぱん)に過去に起こった出来事に戻り、状況を語り、そしてまたタイム・スリップして話を広げ語り続ける。このようなことが村上春樹の文体となっている。
  『蛍』と『ノルウェイの森』で村上春樹がよく扱っているテーマは、人間が現実的に不安でいたりたびたびに考えたりしていることにつながっていると私は思う。読者の位置から見ると作品の主題となっているこのことが自分の気持ちを代弁(だいべん)してくれて、ある意味で「あなたは一人じゃなくて、誰でも世間に対して不安があるよ」という感じで支えて癒してくれる。この理由によって村上春樹の作品は多くの人に読まれていると私は思う。そしてこういうテーマは人間がよく疑問を投げかける実存主義(じつぞんしゅぎ)に関するので、皆が共感出来て、魔法のような力で周りを魅了してしまう。喪失感や闇や死と生や理解することや記憶の不明さや受け入れることなどが『蛍』と『ノルウェイの森』のテーマとなっている。誰だってものを失ったりする。そしていつか誰でも死に捕らえられ、闇に連れ去られる日が必ず来る。理解し合うことは言うよりずっと難しくて複雑で混乱でいっぱいだ。歳月が経って体も記憶もだんだんぼんやりとなっていく。そして何があっても仕方がなく全てを受け入れるしかない。こういう概念は「僕」を尾行し、いつも背景でわだかまっている。
  「僕」は高校二年の時に仲のいい友人に幼馴染の「彼女」に紹介された。三人は仲がよかったが、友人の「彼」がいないと「僕」と「彼女」は話すことはなかった。ある日突然「彼」が車の排気を吸い込み、死を選んだ理由や動機や手がかりなどを残さず自殺してしまった。主人公の「僕」にとって世間は「あまりにも不確実」なので、友人が死んだ後「あらゆるものごとを深刻に考えすぎないようにする」と決心した。「彼」の死に関して大きなショックを受けた「彼女」はばらばらになりかけ、たまに「僕」に会ったり出かけたりする。「僕」にとって「彼女」と二人きりで会ったのはデートだったが、あまり話したりはしなかった。「彼女」が二十歳になった夜、いつもよりたくさんの話をして、結局「彼女」は長い間泣き続けた。その夜「僕」が「彼女」を抱いて、二人で初めて一緒に過ごした。その後「僕」が「彼女」にメッセージを残して部屋を出た。そしてその後「僕」は「彼女」に正直な気持ちを伝わった手紙を書いて送った。「彼女」が返した返事は「僕」に感謝の気持ちでいっぱいで、「僕」に大変「悲しい」思いをさせた。『蛍』の最後のところには「僕」に深い印象を与える「蛍」が登場する。『ノルウェイの森』では「僕」の名前はワタナベで、もう青春からかなり離れて三十七歳で、直子という「彼女」の昔話を思い出しながら書く。「僕」は「彼女」を理解しようと勤めて、忘れかけた「彼女」に関する思い出が薄くなって、すっかり消えてしまう前に言葉にしようと努力している。直子が野井戸の話をした時や彼女が「僕」に 願いを頼んだエピソードまで口外した。最後に「僕」は直子に愛されていなかったということを気づいて、ワタナベは「たまらなく哀し」かった。
  私は「僕」の考え方に関して賛成だ。少し消極的に見えるのかもしれないが、その方が自分自身を救えると私は思う。ものごとを受け入れられない人間がかなり存在している。私もたまに現実を知らない方が楽だと思って、「僕」のようにものごとを問わず簡単に受け入れられないタイプだ。だが私の性格をよく分かっている母が、数年間前から今でも楽に生きられる方法をおしえてくれる。その教えは「考えすぎないで生きる」ということで、単純に口に出来るがするとなると話は違う。『ノルウェイの森』では直子は肩の力を抜くとばらばらになってしまう話をし、そんな風になった理由は彼女にカズキの自殺が強く影響したからである。ワタナベの考え方はあらゆるものに影響されないで、彼自身を救うと私は思う。そして直子は井戸について話し、ワタナベが絶対に落ちないと保証した根拠も彼の考え方につながっている。ワタナベは世界の不確実さを認めて、万事―人間関係や世間で起こる出来事など―に深く巻き込まれないようにするので、彼女のようにバランスを失い、ばらばらになってしまわないに違いない。
  「僕」に印象深かった「蛍」の理由をあげてみよう。私が知っている限りどの種類の蛍も寿命(じゅみょう)の短い虫である(数日間から二ヶ月ぐらい)。言い換えると蛍はいつも死に近い。友人が自殺してから、「僕」が気づいたのは「死と生は対極としてではなく、その一部として存在している」ということだ。そして「死は既に僕の中にあ」って、蛍みたいにこの不確実な世界の中でいつでも死に捕らえられるという概念に「僕」は気がついたので、非常に蛍に魅かれたと私は思う。
  『蛍』と『ノルウェイの森』を読む機会があってよかった。これから村上春樹の作品をもっと読もうと鼓舞(こぶ)している。この話は特にあまりにも暗いのだが、消極的な主人公を気の重い自分に比べれば、自分は明るくなれ私でよかったと感謝でいっぱいになれるのかもしれない。今まで色々な書評を書いてきて、学んだことはどんな作品にも発見されるのを待っている教訓があるということだ。そして自分が作品を分析せず少しでも考えもしなければ、何も得ることはない。そして本を読む意味もなくなってしまうと私は思う。