「ノルウェイの森」・「蛍」の書評

ケンドル・スチュワート


 村上春樹の「ノルウェイの森」の中には、色々なテーマが現れているけど、一つだけを選ぶなら、「主観的現実」というのが大切な主題で、これが全ての他のテーマと関連していると僕は思う。登場人物のワタナベと直子は自閉的だし、外との距離があるし、「自分の中にある現実」に人生を送っている。
 例えば、ワタナベが描く「漠然とした空気の壁」がある。この壁は未来が見えないことや、どの選択が正しいかわからないことを象徴している。自分を囲んでいる壁であるので、正しいことを探したければ、外に向かえなく、自分の中で、自分にとって正しいことを探さなければならない。外にある完全な解決にアクセスできないし、不完全な自分にしか頼ることはできない。直子の「ちゃんとした言葉っていつももう一人の私の方が抱えている」という感じもそうである。不完全な自分の方しか存在しないし、完全というのは追いつけなくて、接することができない概念しかない。
 そして、井戸の話について、ワタナベは「彼女の中にしか存在しないイメージなり記号であったのかもしれない」という。一般的に、存在する物事は現実に限っているから、こうした「自分の中に存在」するものがあれば、自分の中にも他の現実があるのだろう。それで、直子の現実にあるから、彼女は本当にその井戸に落ちる可能性があると信じている。「落ちる」というのは、彼女もいう「混乱する」ことや「バラバラになる」ことを示しているかもしれない。彼女の心は、深い井戸が存在する現実に住んでいる。
 また、ワタナベの記憶喪失は、彼は「自分の現実」だけに包まれているからだ。記憶というのは、現実と深く関係すると僕は思う。記憶がなければ、全ての瞬間をつなぐ強い糸は解けて、体験は独立した瞬間になってしまう。そんな体験を我々が慣れている「現実」と呼べないだろう。現実は記憶に基づいているし、ワタナベの記憶の喪失は彼の現実を歪めている。
 自分を定めるのは自分しかいなくて、自由があるというような含みがあるから、このような主観的現実は悪くないと僕は思う。自閉する可能性があるが、それも自分次第である。村上の登場人物のワタナベと直子はそれに気づくかどうか、続きを読むまでわからない。