100%の人生

エリン・シロマル

 村上春樹は「蛍」を書いた時、「激しくて、物静かで、哀しい100%の恋愛小説」を書こうという意思だった。他の多くの小説のように、彼は恋愛のさびしさやの疎外感や憧れのテーマを扱い、若者の精神的な空虚を模索した。しかし、この話は「100%の恋愛小説」であるべきだったと最初に聞いた時、私は本当に驚いた。「蛍」を読んだ後で、恋愛のことが話の大切な部分だと考えていなかった。「恋愛」は愛する人のために何でもしてあげるし、人の感情をわかることだと私は思う。また、自己を愛することだと思う。
 しかし、話の中では、ワタナベ(「僕」)は彼自身をしか愛していないし、直子を愛して理解することさえできなかった。「僕」は「彼」と直子の関係の第三者であることに満足していたし、自分の恋を見つけることができなかった。「彼」の死の後でも、ワタナベは直子にうまくしゃべれないし、肩を並べて歩くこともできなかった。おまけに、淡い蛍のように、ワタナベは彼女を手離してしまい、彼女を捕らえられない。「手を伸ばしてみると、指は何にも触れない。いつも僕の指のほんの少し先にあった」(47)。短い命の蛍のように、恋愛や記憶を含んで、人生では何も永遠に持続しない。
 それは大切だけれど、私は「蛍」には人生の意味が集約されていると思う。恋愛は人生の一部分だけのようである。自分の人生は死や友情や記憶などを含んでいると私は思う。ある日は友人が生きているが、翌日死んでいることもある。「何故ならあの十七歳の五月の夜に僕の友人を捉えた夜は、その夜僕をもまた捉えていたのだ」(30)。古くなると、時々時間がかかるようだ。「本当は十八と十九のあいだを行ったり来たりしている」(35)。そして、セックスは二人の間に少し意味があるかもしれない。直子は「彼」と寝たことがなかったので、ワタナベと寝るのは意味があると思っていたかもしれない。しかし、セックスをすることによって、彼女は彼女自身や「僕」と接続しようとしたが、代わりに遠々しくなってしまった。人生を前に進むことができない。蛍のように、何も永遠に持続しないし、また得やすいものは何もない。国社会の厳命を象徴する旗でも、夜には仕舞い込まれる。
 たぶん全体としてのこの話は「恋愛小説」である。「ノルウエイの森」では、ワタナベの恋愛の苦闘がより明確になるようだった。療養所に彼女を訪問したように、全てのことを彼女のためにしただろう。直子が彼を拒絶する時でさえ、彼はまだ彼女を深く理解しようとしていた。話の終わりに、彼女についての記憶が薄らいでいるが、彼は彼女について書くことによって彼女を覚えている。書いているこの今、人生で、この恋愛は骨頂に達した。彼は自分の片恋いを認識し、それを受け入れる―それが恋愛だと思う。
 この話は「50%恋愛小説」であるが、ワタナベの寂しさはそれに影響を及ぼされたと私は思う。100%の人生があるために、恋愛は儚くても、恋愛は必要であるようだ。