「蛍」の書評

ジミー・ツァイ

 

 「ノルウエイの森」に対して、村上春樹は自分の言葉で「百パーセントの恋愛小説」と評価したが、この作品の中には恋愛以外のテーマも含まれていると私は思う。特に、この作品はある程度までその時代の若者の内面を描写している。「蛍」の時代背景は動乱があった六十年代で、そのとき、若者(特に大学生)が政府に反抗する事は頻繁だった。村上春樹はこれに対して、「蛍」の登場人物を利用して批判した。「蛍」の主人公のワタナベは目標を設定していないが、それと同時に、強い分析力を持っていて、国旗と「君が代」の意味すら疑った。その一方、ワタナベの同居人は逆のタイプで、目標があり、自分の好きな科目を選んで、成功の人生に至りたい人だ。こうを考えると、村上春樹は、学生運動に参加していない人でワタナベを連想し、「目標がないながら様々な事を疑っているなら、何もできない」と言いたいのかもしれない。その一方、ワタナベの同居人は一般人を象徴し、安定した環境を築ける人だと私は思う(彼ははるかに清潔好きだから)。だから、村上春樹は多分すべての人にワタナベの同居人のようになってほしいと思っているとだろう。
 それにしても、村上春樹が「百パーセントの恋愛小説」だと「ノルウエイの森」を「広告」した。しかし、「ノルウエイの森」は本当に恋愛小説だか?確かに、読者は「蛍」を読み始めるとき、多分「これは恋愛のテーマを中心にして他のテーマに至る小説だ」と読解するかもしれない。しかし、詳細に観察すると、「蛍」の物語の恋愛に関する部分はせつなさに見劣りさせたと私は思う。(そして、「ノルウエイの森」は「蛍」に基づいて書かれた小説なので、この評価を「ノルウエイの森」に適用できるだろう。)
 「蛍」の重要な人物は一人しかいない。この人物は「ノルウエイの森」のワタナベである。直子はただの「助演女優」だ。そして、「蛍」と「ノルウエイの森」と両方ともワタナベの視点から物語る作品なので、読者は語り手の見方しかわからない。しかし、ワタナベの視点はまったく楽観的ではないので、いくらかのロマンスがあっても、そのロマンスはワタナベの消極的な人格に壊される。だから、私にとって、ワタナベの「せつなさ」のほうが「恋愛関係」よりもっと重要だ。つまり、「恋愛」は「蛍」の一番大切なテーマではないと私は思う。
 結局、「蛍」は「希望のない」という雰囲気を充分に表せる作品なので、主人公の観点に沿って読むと、読者自身も落ち込むだろう。しかしながら、「蛍」が表せるテーマはまだたくさんあるので、繰り返し読むと、必ずほかのテーマを見つけられると信じている。