「蛍」と「ノルウェイの森」― 書評

チョー ユニス

 私は「蛍」と「ノルウェイの森」の書評をどう書けばいいのか悩んでいた。抽象的な喪失感はたぶんこの二つの小説の最も明らかなテーマだと私は思う。ところが、このテーマは「蛍」と「ノルウェイの森」に具体的な定義をつける事を困難にしている。だから、私はこの書評について悩んでいた。
 社会の一般論は村上春樹の小説には通用しない。村上の小説の世界では、正しい事と間違っている事がないのだ。彼が書く主人公たちも不可解なことを受け入れている。その上、他の小説と違って、「蛍」と「ノルウェイの森」はつまらないとも激しいとも言えなく、静かな小説だと思う。
 小説の登場人物はいつも自分の感情や考えをはっきり言い出すところで止まり、「うまく言えない」やら「思い出せない」やら曖昧模糊なことを言ってしまうばかりだ。忘れてしまった事が多いようだが、この物語の主人公であるワタナベは自分が何かをなくした事をしつこく覚えていて、多くの「村上流」の主人公たちのように、失くした物に執着し、寂しがり、喪失感にとらわれている。
 学生時代に、ワタナベは常に友人のキズキと直子(キズキの彼女)と一緒に遊んでいた。高校の時、そのキズキがなくなった。キズキが死んだ後、ワタナベと直子の関係には微妙な距離が存在している。外から見ると、二人は恋人のように見える。ワタナベが直子のことが好きだったのも確実だと思う。それにもかかわらず、ワタナベは直子が自分を素通りして他人を見ている感じがする。その人は生前のキズキだろう。最後に、ワタナベが出した結論は「直子は僕のことを愛してさえいなかった」というものだ。でも、ワタナベの喪失感はキズキが自分から離れた事や直子が自分を愛していない事だけではない。
 そもそも、彼は社会と上手く融和できず、消極的な人だと私は考える。大学の寮の同居人と比べたら、ワタナベは教育制度を楽しめず、同じ寮の上級生とも喧嘩してしまった。なので、自分と親密だった人や自分が愛していた女が自分から離れてゆく時の哀しさはワタナベにとって、極めて深刻だろう。時間が経つにつれて、記憶が薄くなっても、ワタナベは友人と愛する人を失った喪失感から回復できない。
 もし、ワタナベがもっと積極的で、性格が明るいキャラクターだったら、彼は時間に癒されるかもしれないと私は考える。実は、私はワタナベのような人が嫌いだ。彼はいつも受け身で、大胆に他人を憎んだり、愛したりできない人だ。「答えは簡単だ。自分が人生を難しくしているだけ」と私は言いたい。
 ところで、「ノルウェイの森」は「蛍」に基づいて書かれた小説だ。「蛍」は短編小説だが、「ノルウェイの森」はかなりの長編で、物語全体は(上)と(下)二冊に分かれている。短編小説で書き切れないことがそんなに長い話になるなんて、私はちょっと驚いた。私は長く書かない方がよかっただろうと思う。「蛍」を長く書くと、その話が細かすぎるようになる気がするからだ。ワタナベはよく「思い出せない」と言うくせに、出来事を細かくまで述べるのは二律背反だと思う。さらに、「蛍」のような話にとって、出来事が朦朧としている方がワタナベの漠とした喪失感と思い出せないことをうまく反映できる。ある物事は言わないままの方が美しいだろうと私は思う。