「橋のない川」映画評

ジミー・ツァイ

 

 「橋のない川」という映画と、島崎藤村が書いた小説「破戒」の両方は部落民についての作品なので、共通点が多い。しかし、この二つの作品の間には相違もある。特に、この二つの作品の差別問題についての意識とテーマはまったく違う。
 「橋のない川」と「破戒」との共通点の一つは作品の背景であり、どちらも学校で起こる差別問題を話題にしている。そして、この二つの作品の主人公は部落民で、二人とも自分の身分を良く分かっている。それで、主人公の「丑松」も「孝二」も、作品の最後で自分の身分の現実に直面した。しかし、この二人のそれに向き合う方法は違う。
 丑松と孝二との違いは、丑松は最後まで自分が部落民の身分を隠したかったが、孝二は物語の最初から部落民の身分を「公開」していて、最後まで部落民の権利を主張している。なぜなら、丑松はその当時の社会の「部落民を差別することは当然だ」というルールを遵守し、自分の身分を公開しない限り、普通の生活を維持できると思っている。その一方、孝二は最初から差別問題の根源を見、社会の中で起こる差別問題を解決するだけにとどまらない。むしろ、孝二は人々の心を「再教育」したくて、すべての人が心の中に隠している区別意識を根絶したかった。
 丑松と孝二とも部落民なのに、どうしてこの二人の対処方法はまったく違うのだろうか。この質問を考えると、この二人の主人公の部落民に対しての意識的な相違に気付く。丑松は多分、部落民に対する問題が個人的なことと考えている可能性が高い。だから、丑松にとって、普通の生活を送るために、個人的な努力だけが必要だ。しかし、孝二はもっと団体的な観点を持っていて、部落民の問題を解決するために、すべての部落民の支持を得なければいけないと思っているかもしれない。この違いは、二つの作品のテーマの相違を表している。
 「橋のない川」の最後で、部落民の問題を解決するために、主人公らは「水平社」という組織を結成し、部落民の権利を主張していた。こうして、「橋のない川」は部落民の劣勢を改善する方法を与えた。しかし、「破戒」の物語は最初から最後まで、部落民の全体的な問題解決策を与えていない。こうして考えると、「橋のない川」は部落民に希望を与えたが、その一方、「破戒」のテーマはもっと絶望する現実を描いている。だから、「橋のない川」と「破戒」とも、部落民が差別される問題を主題にした作品なのに、「橋のない川」の物語は楽観的に終わって、「破戒」は悲観的に終わったと私は思う。