「Body Cocktail」の書評

ケンドル・スチュワート


 近代の文化は、子供と大人の性格や役割の違いを比較して説明しようとする。たとえば、大人はものごとを決めるべきで、子供はそれに従うべきである。子供はナイーブで、大人は世間に慣れている。しかし、実際は、この二分法のように簡単ではないと、山田詠美の「Body Cocktail」という小説は表している。そのために、この小説では子供と大人の交わりである不明な年頃が描かれているのだ。
 この話の語り手は、大人びた子の例としてカナを登場させている。カナは、自分のクラスメートを子供だと考えている。カナは騒いでいる皆と違って、静かで独立した女である。男と寝ているけど、それについて吹聴していない。吹聴したりしている他の女たちは子供だと語り手は言う。ここにもうこの年頃の矛盾がある。お喋りのし方は子供のようだけど、その話題はセックスである。これは矛盾している。性格と年齢では子供と呼べるけど、行動は似合わない。このような性愛を体験している高校生は子供か大人か不明である。
 普通は、両親が何かを選択したら、子供はそれに従わなければならない。この話では、逆である。語り手の両親が離婚して、彼女はどちらの親と住むかを選べた。どっちを選んでも、彼女の両親はそれに従わなければならない。この場合に、子供と大人の役割は乱れている。
 山田詠美はこの乱れに惹かれているのかもしれない。子供は一方、大人は他方だという二分法より、人間は一人一人異質で、自分自身でその異質さに対応しなければならない。だから、カナは二人が恋を作れるかどうかわからないという危うさが好きだと語り手に言う。たぶん、山田詠美は人々が「子供」や「大人」という名目を使うより、この話の年頃に生まれる矛盾を抱ければ、人生に満足できると伝えたいのだろう。僕も、山田詠美の考えと同じで、名目などというものは世界を分析するのに役立つと思うけれど、分析しすぎると動けなくなるから、一般的に分析しすぎるより矛盾を抱くほうがいいと思う。この話の終わりでは、語り手が自分の父と母のことを明らかにはわからないけれど、その二人の異質さと、自分と両親の異質さを悩まないで、甘い感情を抱いている。