鈴木幸裕氏による「村上春樹研究」からの抜粋
http://comet.tamacc.chuo-u.ac.jp/2000zemi/MURAKAMI.HTM

第五章  村上春樹の小説の精神性 

村上春樹氏の小説は何冊もあるし、エッセイなどを含めるとかなりの数になる。その中で今回の論文に取り上げる作品を選ぶのはかなり困難なことである。村上春樹氏の作品の全てに関して言える理論でなければ一般的な理論として成り立たないし、説得力もない。しかし、全てを取り上げるのには、無理に等しいので、まず個人的な判断で、「ノルウェーの森」を取り上げることにした。

この作品の原型となっているのは「蛍。納屋を焼く・その他短編」に収められている「蛍」という短編であり、これが第二章に組み込まれている。このいきさつについて、村上春樹氏は「par avion」のロングインタビューにおいて、次のように語っている。「僕は昔『蛍』という話が書きたくて、さっと書いちゃったんです。で、短編としてのできもそう悪くなかったと思うんです。ただね、語り残した、もっと上手く書けたはずだという想いは僕の心の中にずっと残っていたんです。それにけりをつけたいということはずっと思っていたんです。あの話の中にはもっともっと強く語られたがっているものが潜んでいると。もっと膨らませて、もっと力のあるものにしたい、と。でも、結構かかっちゃったんですね。けりをつけるだけの力を蓄えるまでに。」こうして、第一章に物語を過去へと引き戻すための回想シーンが描かれ、第三章以降、物語が膨らんでいく。 再び村上春樹氏の言葉を引用するならば、「僕は『蛍』を何とか膨らませよう、伸ばそうというところから始まっているから登場人物もあとから持ってきたわけです。例えば、緑なんていうのはまったく出てこなかったし、だから、『蛍』が終わった時点からどう話を伸ばそうか、これは相当考えたんですよね。で、緑という女の子を思いついたところで話はどんどん進んでいっちゃった。だから直子という存在の対極にあるというか、対立する存在としての緑を出してきた時点で小説はもうできたようなものだったわけです。あとは永沢くんというちょっと奇妙な人物を出してきた。この三人の設定で上手くいってるんですよね。」こうして物語は、「僕」と直子、そして「僕」と緑という二つの並行した関係を中心に進んでいく。病気療養をしている直子と健全なイメージの緑、この二人はそれぞれ「静」と「動」、あるいは「生」と「死」という風に村上流の二つの世界、例えば「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」のような物を見せている。その間に、キヅキ、レイコさん、永沢さん、そしてハツミさんという人物が絡まってくる。

この小説で村上春樹氏の小説の中で初めて主人公が「ワタナベ」という名前を持つのだが、そのことによって彼自身が言っていた「リアリズム」の小説が完成されたとも言えるだろう。彼にとって、「蛍」はリアリズムの文章を試すものだったに違いない。それまでは違った表現方法でデタッチメントを描いてきた。しかし、「蛍」によって「リアリズム」の文体によるデタッチメントの表現が可能であることに気づき、文体への挑戦である小説から、それまで彼が目指してきたデタッチメント表現の小説へと生まれ変わった。すなわち、物語も長くなりひとつの長編小説になったのである。その主題がデタッチメントであることを示すように、この小説に登場する主人公の多くが何かしらの「喪失感」や「歪み」をかかえている。そして、みな自閉的だ。竹田静嗣氏はこのようなことで、「ノスタルジックでセンチメンタルな青春回顧的(レトロスペクティブな)恋愛小説。閉じられた他者を書いたナルシスティックな青春小説。」という批評をこの小説は持つ、と言っている。

このことについて例をあげてみると、まず、「直子」の場合はキヅキとの関係をこのように語る。「まるで、お互いの体を共有しているような、そんな感じだったのよ」「とにかく私達はそんな具合に成長してきたのよ、二人一組で手を取り合って普通の成長期の子供達が経験するような性の重圧とかエゴの膨張の苦しみみたいなものをほとんど経験することなくてね」「自我だってお互いで吸収しあったり分け合ったりするのが可能だったから特に強く意識することもなかったし」そして、その関係を直子は「無人島で育った裸の子供」と比喩する。すなわち、直子とキヅキは常に一緒に暮してきたのである。そして外界他者とのかかわりを特にないままであったのだ。唯一関わるとすれば「私達はあなたを仲介にして外の世界に」するしかなかったのだ。すなわち、そとの世界とうまく関わるためには、ワタナベの存在が必要だったのである。この関係が成り立つためには誰も欠けるべきではなかった。誰かが欠けると、またもつれてしまうと、成立しなくなる関係であり、その関係の中でしか直子はいきていくことができなかったのだ。ゆえに、キヅキが自殺し、直子とワタナベが寝た後、直子はバランスを崩し、入院してしまう。その入院先の「阿美療」はセルフへルプグループ施設のようなもので、自給自足の生活をし、「療養」を行うのである。「みんな自分が不完全だということを知っているから、お互いを助け合おうとする」と、レイコさんは言う。彼女は七年間その療にいるわけだが、一度外に出たものの、また戻ってきている。彼女もまた、この療の世界の中でしか生きられない人間なのである。レイコさんは最終的に直子が自殺したことをきっかけにして僕を頼りに「療」の外に出ることになる。しかし、決して完治ゆえの幸せな退寮というのではなく、不安に満ちた、反対に「怖くて怖くて気が狂いそうなのよ。どうしていいかわらんないのよ。一人でこんな所に放り出されて。」とさえ、言えるようなものなのである。ワタナベと性的行為を通してコミットメントし、社会へ出ていく。つまり、直子と同じようにワタナベが社会との介在者となっているわけだ。行く先は「作りそこねた落とし穴」のような旭川である。レイコさんは旭川へ行くことにかなりの絶望感を抱いている。 

他の登場人物も、どこかに影を背負い、自閉的な人が多い。このことは村上春樹氏も自分で語っている通り、デタッチメントが主題となっていることを思い出せば、納得がいく。この喪失感、自閉感は彼の小説の中に常に存在している。例えば「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」では「それから僕はめを閉じたまま図書館の女の子についてかんがえてみた。しかし、彼女について考えれば考えるほど僕の喪失感は深まっていった」「その井戸はあまりにも深く、あまりにも暗く、どれほどの土もその空白を埋めることはできないのだ」と、主人公は語っている。「世界の終わり」で舞台となる「街」は喪失と内閉の比喩となっているのだ。

井戸は「ノルウェーの森」の前半にも出てくる。確かに、主人公も井戸について、「あるいはそれは彼女の中にしか存在しないイメージなり記号であったのかもしれない」と比喩を匂わせている。イドはリビドーの源泉エネルギーであるというフロイトの理論があるがそうした精神分析を利用した村上春樹氏の小説分析というのは数多く見られる。桜井哲夫氏は「閉ざされた殻から姿をあらわして」の中で、「この小説を一言で定義してしまうなら、サイコセラピー(精神療法)ないしカウンセリングの文学だということになる。」と述べている。直子は「井戸」に入ることを拒絶しているが、それは「周りにはムカデやクモやらがうようよいるし、暗くてじめじめしていて。」という嫌悪感があるようだ。イドに」対する嫌悪感。確かに、直子は性的なコミットメントは一度以外していない。そう考えてゆくと、村上春樹氏の小説を精神分析学的に理解することは容易な事のように感じられる。

精神分析と村上春樹氏との係わりという面では、丸川哲史氏が「時代の分析医」と題した論文の面で、「回転木馬のデットヒート」を主題として、こう述べている。「日本の精神分析の導入、その実践的な系譜が、フロイト〜ラカン的なものではなく、フロイト〜クライン(またはユング)的なところに多く節合されている」「個の確立を前題とした父親転移的な対象としての分析家は好まれず、ロールプレイング的な集団療法が好まれている。そして患者の目標は、市民社会への復帰ではなく、患者同士の癒しの場(ネットワーク)の確保という方向に結びつく。」これはどういうことだろうか。「癒し」という言葉は出たが、ここでの「癒し」は、私の言っている「癒し」のそれと簡単に結び付けられるものではない。それはネットワーク、すなわちコミットメントとのかかわりでのものである。すなわち、日本での患者の復帰というのはコミットメントを求めることであるというのである。前にも述べたように、「ねじまき鳥とクロニクル」ではコミットメントが主題となってくる。「ロールプレイング」という言葉が出たが、村上春樹自身、「僕は、小説を書くのはテレビのロールプレイング・ゲームに似ていると思うのです」と発言している。

ここまで述べてきて、まだ述べたりないところもあるけれど、村上春樹氏の「ノルウェーの森」という小説が、カウンセリング的なものであること、精神分析的解釈が十分にできることがある程度分かったのではないかと思う。桜井氏は次のように考える。「語り手になっているワタナベ君は、厳密に言えば、主人公ではない。なるほど、表面的には、主人公となっているが、この小説の真の主人公は読者一人一人なのである。」「読者はその登場人物の時々の悩みのどれかに自らの悩みを投影させることができるのである。」すなわち、小説の中の「ワタナベ君」という存在は、名前を与えられてリアリズムな存在であるように見えるが、小説内の登場人物の悩みを聞くと同時に、読者のカウンセラー的存在でもありえるということである。読者は、例えば突撃隊の几帳面過ぎる性格、困難な家庭の事情、直子、レイコさんの自閉的なコミュニケーション、または直子の自殺という点などの様々な悩みに自分の悩みを投影し、それをワタナベ君に聞いてもらうことによって、カウンセリング的効果がもたらされるのだ。丸川氏もこう語る。「『村上』の身振りは、いわば患者に精神分析的な転移(投影)を促す精神分析医のそれである」「表面的には、限りなく優しく弱く肯定する分析医、あるいは分析医とは全く意識されない分析医として読者に感得される仕掛けになっている。つまり、精神分析の日本的代換物は、『村上春樹』という文化商品として80年代に拡散していったとも言える」。

これは、「回転木馬のデットヒート」に対する評論であるが、これらの小説をふまえて「ノルウェーの森」が書かれたものだとしたら、実際、前年に出された短編集の「蛍・納屋を焼く・その他短編」の中の「蛍」という小説が元となって書かれているものであるから、関連性があると考えるならば、同じことが「ノルウェーの森」でも言えるのではないだろうか。つまり、ワタナベ君は「意識されない分析医」であるのだ。小説の中で、ワタナベ君を媒介として社会にコミットメントしようとするもの、悩みを語るものを彼は分析している。それは読者にとって、」新たな第三者的とも言える視点での意見ともなりえる。すなわち、自己批判をも内包した「優れたカウンセリング小説」であると言えるだろう。

こうして、小説を読み込んでみると村上春樹氏の小説が精神性を持っていることが分かる。八〇年代から文庫化された九〇年初頭にかけて「ノルウェーの森」が爆発的な売れ方をしたのは、小説がカウンセリング的なものであり、多くの人がそれを求めていたからに違いない。多くの人達がデタッチメントになる。斎藤環氏の理論を借りるならば、「周りのストレスやノイズから身を守る解離状態として壁を作っている。しかし、解離はその進行を進め過ぎるとコントロール不可能となり、病理状態になる」と、斎藤氏は言う。「抑圧は必然的に回帰を伴うがゆえに神経症が起こるとすれば、解離はまさに解離の存在がゆえに問題化するのだ。」そしてその症状は「いずれも村上作品に見出しうるものである」そうした、自閉的、孤独的な壁に囲まれた人々、そうした人がコミットメントする。それが必要であることを村上春樹氏は「ねじまき鳥とクロニクル」で書いたのである。

第六章  村上春樹と現代社会

これまで、現代社会の「癒し」について、村上春樹しはどういう遍歴の持ち主なのか、そして、彼の作品がどのように人々に読まれているのか、また、その作品の精神性について述べてきたわけだが、ここでようやく、村上春樹氏と現代社会の関りについて述べることができると思う。

疲れている時、人間は肉体的な疲労感につられて精神的にも弱くなっている。そんな時に「カウンセリング小説」である、精神的な内容が描かれた小説を読むことによって読者は投影と共に癒される。また、現代社会においてデタッチメントの風潮が強くなる中、自分の関わるもの以外のことには無関心な人間が多くなってきたと言われている。けれども人間とは基本的に一人で生きていくということには何かしらの不安が付きまとうものである。そうした、疎外感にも似た孤独感、自閉といったものに対する不安な気持ちを、小説の中の登場人物に重ねて共感し、それがまた、癒しとつながることもあるのである。「自分は一人ではない」という、安心感を与えてくれるものであるというのだ。

現代社会はストレス社会であり、多くの人が心的悩みと共に暮らしていると言っても大げさではない。それは九0年代のバブル崩壊後、ますます加速度を増している。人間には欲が存在し、あれも欲しい、これも欲しいというのが当り前の人間の欲望である。バブル崩壊によってその欲に制限がかかったのだから、ストレスがたまるのも当り前である。周りにうまく言えないことが増え、なかなか思い通りにいかない。それはストレスという心的悩みとなり、人々の中に積み重ねられるのだ。そのような人々が人の心を理解しようと、心理学に興味を持ち、現代の「心理学ブーム」を作り上げたのだ。日本はまだ、欧米のようにカウンセリングが実生活で普及していない。今だに、カウンセリングに行くということには躊躇する人々が多いし、誰でもが悩んでいることでそういうところに行くのも大げさな気がして行く気になれないというのが人々の気持ちであろう。また、そのようなことで悩むのは当たり前すぎて、自分で悩みと認識していないということも考えられる。そうした中で、人々は身近なもので心をリラックスさせようとし、それが「癒し」へとつながる。村上春樹氏の小説も、そうした人々がその精神性に共感を求めて、その共感から得られる癒しを求めて、対象となっているのに違いない。彼の存在は、「癒し」への需用が増大した九0年代にはすでに、共感しやすい「ノルウェーの森」で認識されていた、というのも対象となった要因の一つとして考えられる。村上春樹の小説は九0年代前後の読者の「癒してくれるもの」という需用にうまく答え、多くの人の共感を呼んだのである。それは、彼の小説が精神性を持ったものであり、「カウンセリング小説」とも呼べる ものであったからである。
最後に、村上春樹氏は最新の小説で精神的なコミットメントを訴えたのだが、それ にならって、多くの人々が精神的なコミットメントを実行し、強く生きていけるよう になれるだろうか、という点に関してはまだ答えが出ていない。彼の次の長編小説が 出るのを待ち望みながら、そうした現代社会の人々の変化という点にも注目していきたい。