松浦寿輝による川上弘美「蛇を踏む」の解説の抜粋
文春文庫 (1999; 2002) pp. 174-183

  あまたの動物や植物が入り乱れる川上弘美の物語世界では、種と種との間の境界がいきなりどろりと溶け出して、分類学の秩序に取り返しのつかない混乱が生じてしまう。この作者やたしか大学では生物学を専攻したはずなのに、あたかもリンネの命名システムなどまったく信じておらず、一つの種からもう一つの種へと存在は自在に往還できると思いこんでいるかのようだ。実際、彼女の登場人物たちは誰も彼も勝手放題に自分を動物化し、植物化し、しまいには生物と無生物との境界も消え去ってしまう。(中略)
  「者」とも「物」ともつかなくなったものたちを登場人物と呼ぶのもおかしなことで、どういう呼称を用いるべきかわからないのだが、とにかくこのものたちは、固定された種のカテゴリーの内部に安穏ととどまっていることが厭で厭でたまらず、自分の輪郭をどろりと溶かして自分ならざる何ものかになってしまいたいと欲望しつづけているらしい。そして、そうした輪郭の溶解はいつでもいきなり起こる。
  たとえば蛇を踏むこと。「ミドリ公園に行く途中の薮で、蛇を踏んでしまった」。種の混乱は何かにいきなり深く触れてしまうところから始まるのだが、この「いきなり」には何の理由もない。踏みたくて、あるいは踏もうとして踏んだわけではなく、事のなりゆきは、「蛇を踏んでしまってから蛇に気がついた」、ただそれだけのことである。だから、不測の事故ではあってもそれが取り返しのつかない失態として意識されることなど絶えてない。もっとも、踏まれた蛇の方はそう思ってはいないようだ。

「踏まれたらおしまいですね」と、そのうちに蛇が言い、それからどろりと溶けて形を 失った。煙のような靄のような曖昧なものが少しの間たちこめ、もう一度蛇の声で「お しまいですね」と言ってから人間のかたちが現れた。

  ここでの変容が、気体―液体―固体という物質の三相すべてを経巡りつつなされていることに注目したい。そんな生成変化はあくまで変幻自在なのである。そんな生成変化を経てしまったことを楯に取り、ものの方では「おしまいですね」「踏まれたのでは仕方ありません」などと呟きながら、決定的な出来事が起こってしまったことを何とか認めさせようと「私」に迫る。(中略) 「私」にとって重要なのはむしろ、この引用部分の直前の、「蛇は柔らかく、踏んでも踏んでもきりがない感じだった」という実に魅力的な一行の方だろう。なまなましいとも、なまぐさいとも、なまめかしいとも形容できようこの「きりがない感じ」ことを、世界の分類学的秩序に対して向けられた川上弘美の悪意の表現そのものなのだ。
  「きりがない」ということ。われわれが眺めている世界の風景の場合、「きりがある」のが普通である。それは「きり」良く分類整序され、たとえば人は人であり蛇は蛇であって、それらカテゴリー間の混同はありえないという明瞭な了解がそこで営まれる安穏な生の持続を保証している。世界は、碁盤の桝目のようにかっきりと「きり」分けられているのが常態なのだ。この「きり」の概念を崩壊させてしまうものが川上弘美の小説なのである。(中略)
  小説の最後で「私」は「いちじに結末をつけようという気になっ」て、「蛇の世界なんてないよの」と断定するのだが、「ほんとかしら」「そんなにかんたんなことかしら」と女に応じられるや、事態はただちにまたどちらともつかぬ未決定状態の中に突き落とされる。「私」は水浸しになった部屋ごと流されてゆき、その中での女との首の締め合いが果てしなく続き、そうこうしているうちに小説は不意に最後の一行に逢着する。この「蛇を踏む」にかぎらず、川上弘美の小説はどれもこれも最後の一行に至ってもなお何かが終わったという印象がきわめて希薄だ。「いちじに結末をつけよう」と思い立つ瞬間が時としてないわけではないにしても、彼女が深いところで執着しているのは、結局のところ、未決定状態の中でたゆたいつづけることなのだろう。いつまでも終わることのないこうしたたゆたいの肉惑性こそが、彼女の小説の本領なのである。
(以下省略)