Excerpts from「放課後の音符(キイノート)」山田詠美著。角川文庫出版。

放課後が大好きな女の子たちへ ――あとがきにかえて (p. 181)
  良い大人と悪い大人を、きちんと区別出来る目を養ってください。良い大人とは、言うまでもなく人生のいつくしみ方を知っている人たちです。悪い大人は、時間、お金、感情、すべてにおいて、けちな人々のことです。若いということは、はっきり言って無駄なことの連続です。けれど、その無駄使いをしないと良い大人にはならないのです。死にたいくらいの悲しい出来事も、後になってみれば、素晴らしき無駄使いの思い出として、心の内に常備されるのです。私は昔、雑誌で、悩みごとの相談をやっていましたが、本当は、他人が他人にアドヴァイス出来ることなど何もないのです。いかに素敵な無駄使いをしたか。そのことだけが、色々な問題を解決出来るのです。学生時代の放課後は、その無駄使いのためのちょうど良い時間帯なのです。と、いうわけで、なあんにも考えずに、恋や友情にうつつを抜かして欲しいものだと、私は思います。無駄使いの道具として、この本が役立つことを願っています。

文庫版あとがき (p, 183)
  子供の頃、私は現代国語の教科書が大好きだった。新学期が始まり、新しい教科書が手許に届くと、気持ちがわくわくしてしまい、家に帰るまで待てずに、帰り道、歩きながら国語の教科書を開いて読んだ。そんな私は、当時、どの小学校にもあった二宮金次郎の銅像(古い!!)さながらであり、とても、奇異だったと思う。しかし、私にとっては、国語の教科書は、胸をときめかせる短編のアンソロジーだったのである。(相当に嫌みながきである)
  その内、私は、国語の教科書に載る小品が、自分の最も興味を持つ、ある種のテーマを排除したものばかりであるのに気が付き始めた。もちろん、恋というものである。教科書から、恋というテーマがはずされていると気付いた時、私は、初めて、与えられたものではなく、自分自身の手で、自分自身の教科書を捜さなくてはならないと感じた。始めて訪れた理不尽な感情の動きに対処するために、私は、放課後の図書館通いを始めた。。。。(以下略)

解説 ーby 氷室冴子 (pp. 186-191)
  私が山田詠美さんの小説の中の女の人や、女の子が好きなのは、彼女たちがみんな、自分の儀式をもっているからです。
この本の中にいる女の子もみんな、自分の儀式をもっています。
自分の儀式をもつというのは、自分のルールをもつということ。
群れの中の “クラスの和”  みたいな、ベタベタとなしくずしにくっついてくる溶けた水飴みたいなルールとはちがう、自分だけのルール。
カナの細い足首にまきついてサラサラしている金のアンクレットとか。
。。。。。。(中略)。。。。。
それはみんな、彼女たちの儀式のためのたいせつな小道具、 “わたし”になるための小道具なんです。
大人の女になるには早すぎて、少女のままでいるには心も体も熱すぎる女の子は、どうすればいいのかというと、“わたし”になればいいんです。
“わたし” にならなければ、恋はできない。友達を愛することもできない。好きな男や、友達のために涙を流すこともできない。
“わたし” になるためにはたくさんの時間、群れから離れた時間が必要です。
群れから離れた時間が、わたしをとりまく風景をつくってくれるのです。わたしになるためには、わたしの風景が要るのです。
西日のさしこむ教室で、彼にもらったブレスをゆらしているカナの背後には、好きな人と一緒にすごすゆるやかな時間や、やさしい感情や、愛しい思いがとりまいて、彼女のための風景をつくってくれています。
。。。。。。(中略)。。。。。
この小説は、今の日本の中で、私が少女小説という名まえに持っているイメージに重なる、ほとんど唯一の小説、一番ゴージャスで、一番シンプルな、現存する、ただ一冊のほんものの少女小説です。少女小説という言葉が褒め言葉にならないとしたら、山田さんには申し訳ないのですが。