◆「踊る小人」村上春樹

黒古一夫「村上春樹 ザ・ロストワールド」(1989年。六興出版)からの抜粋

p. 203
中上健次。。。(中略)。。。など、すでに先行していた同時代作家のいずれとも、村上春樹の個性は違っていた。この国の近代文学の根強い伝統になっていた自然主義文学=私小説の世界と、それはほとんど無関係な土壌から生まれてきた、と思われるものがあった。
村上春樹の登場は、。。。(中略)。。。この国の経済が高度成長期から安定成長期に移行しはじめた時期であった。とりあえず「平和」で、しかも「豊かさ」がいたるところにあふれている時代、それが村上春樹の文学を側面から支える大きな要素である。

p. 195
村上春樹は「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」をのぞいて、作品の基点を1970年に凍結することで、この<時代>とか<世界>とかにほとんど関係ない作品世界を構築することを、自分の小説の特徴とした。全く自在に自分の感性と観念によって虚構の世界を創り出す、これが村上春樹の作風である。それではなぜ、村上春樹は村上龍や三田誠広などと違って<時代>とのかかわりを無化する意志を持っているのか。おそらく、そこにはこの時代に対する深い絶望、言葉を換えればぬぐいがたいニヒリズムの感覚が誰よりも強くあり、その感覚の内部にとどまることを自ら肯定しているからと思われる。

p. 160
村上春樹の小説がいつも<喪われしもの=ロスト>にかかわっているのも、彼がアメリカ文学史におけるロスト・ジェネレイションに強い興味を持続していることと、決して無縁ではないだろう。ロスト・ジェネレイションの作家たちが第一次世界大戦という未曾有の大量死を生み出した非人間的所業の体験をバネに、戦後のニヒリズムを裡に秘めた頽廃と必死に闘い、自己破壊的は孤独を愛していたことと、村上春樹が60年代末から70年代初めの学生叛乱=全共闘運動を通過して、見せかけの「平和」と「豊かさ」のなかで<精神の傷>をモチーフにした作品を書きつづけているのとは、ほとんど相似と言ってよい。

p. 161
村上春樹とアメリカ文学との関係を言う時、大事なことは村上春樹が「アメリカ」という国に対して、それ以前の世代がもっていた「従属」意識や「あこがれ」をほとんど持っておらず、むしろ先進工業国としてのパートナーとしての共通部分に大きなシンパシーを感じているということである。。。。(中略)。。。「And Other Stories ― とっておきのアメリカ小説12篇」(88年)が如実に示すように、いとも簡単にアメリカ現代文学を翻訳してしまうそのメンタリティーこそ、村上春樹とアメリカ(文学)との最も典型的な関係と言えるだろう。

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p. 67
村上春樹がこだわりつづけた「羊」とは実は、あの1960年代末期から70年代初頭にかけて、当時の若い世代をより非現実の彼岸へと押しやった「革命思想」「自己否定」という「観念」ではないだろうか。

p. 71
「羊をめぐる冒険」において「僕」が<羊>を探しに行くというのは、<過去>に封印したはずの<青春>を探し出す、言ってみれば自分の原点へ遡行する感傷旅行だったのである。

p. 73
「僕が僕だというのも、どうもしっくり来ない」というのは、この十年間の「僕」の生きてきた現実が空白であるというのに等しい。「僕」はおのれのアイデンティティを喪失した10年間を生きてきたのである。乾いた生の10年間、これはまぎれもなく悲劇である。自分の人生が悲劇だと知って放りぱなしにしておく人間はいない。「僕」が<羊>探しの旅を決意したのは、だから「僕は僕だ」ということを確信したかったからにほかならない。

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p. 96
この「羊男」の言う「僕」のような人間の在り様を一言で言えば孤独ということになるのだろうが、<過去=観念(イリュージョン)>の呪縛から解き放たれて<現実>におりたったその実態が孤独を背負っての生であるというのは、。。。(中略)。。。
そして、その現実への降下は、「羊男」によれば<踊りつづける>ことによってしか可能でないとされる。ここで<踊る>ことは、「僕」が他者との関係性を回復していく積極的な行動の比喩である。「じっと座ってものを考えているだけじゃ駄目なんだ。そんなことしたって何処にもいけないんだ」とは、「羊男」の忠告である。とりあえず<踊る>こと、そこからすべてが始まる。

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p 115
「ノルウェイの森」上巻の帯には村上春樹の言葉として、次のような文章が書きつけられている。
この小説はこれまでに僕が一度も書かなかった種類の小説です。そしてどうしても一度書きたかった種類の小説です。

これは恋愛小説です。ひどく古ぼけた呼び名だと思うけれど、それ以外にうまい言葉が思いつけないのです。激しくて、物静かで、哀しい100パーセントの恋愛小説です。

作者がこの小説を「恋愛小説」だと言っているのだから、他人がとやかく言うことではないかもしれないが、果たしてそんなに簡単にこの長編小説を「恋愛小説」と言ってしまってよいものかどうか。確かに、ここでは一人の男=主人公が二様の<恋愛>を経験する様子がかなり刻明に描き出されてはいる。
しかし、「僕」と「直子」、そして「僕」と「緑」の関係は、本当に<恋愛>なのだろうか。男と女がいて、二人の関係がセックスを行うほどに親密になったからといって、それでその男と女が<恋愛>関係にあると考えるのは、余りに安直というものだろう。

p. 116
作者が「恋愛小説」だと言っているのに、「ノルウェイの森」には<愛>が存在しないというのはおかしい、と思われるかもしれないが、この長編にあるのは<愛>ではなく、<優しさ>なのである。例えば、次のような「僕」と「直子」の関係に<愛>はあるか。ここにあるのは<優しさ>だけなのではないか。

「私にはわかるのよ。ただわかるの」直子は僕の手をしっかり握ったままそう言った。そしてしばらく黙って歩きつづけた。。。。(中略)。。。

何の変哲もない「僕」と「直子」の会話であるが、なぜ「直子」が「僕」に身を寄せつけないのか、また「僕」の方も「直子」の心のうちに強引に入っていかないのか、について考えてみれば、作者は周到にも「僕」に「東京について寮に入り新しい生活を始めたとき、僕のやるべきことはひとつしかなかった。あらゆる物事を深刻に考えすぎないようにすること、あらゆる物事と自分とのあいだにしかるべき距離を置くことー それだけだった。」と言わせているし、「直子」の方には高校時代に「僕」の友人でもあった恋人の「不可解な自殺」を経験させていて、二人はともに人間不信と言ってもよい感情の持ち主として設定されているのである。

死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。
。。。。(中略)。。。

17歳にして<死>を<生>の一部と考えてしまう「僕」の感性(たぶん「直子」も同じ感性を持った女性であった、と見ることができる)、このような人間に生の極致のひとつである恋愛、つまり<愛>の実現が果して可能かどうか。