江戸(1603-)  ―明治(1868-)  ―大正(1912-) ―昭和(1926-)  ―平成(1989-)

夏目漱石が生まれたのは、1868年。

明治時代の社会

文明開化(ぶんめいかいか)=近代化=西洋化
資本主義(しほんしゅぎ)
個人主義(こじんしゅぎ)

立身出世(りっしんしゅっせ)
良妻賢母(りょうさいけんぼ)

戦争:日清戦争(明治27-28年/1894-95年)日露戦争(明治37-38年/1904-05年)

国の方針(ほうしん)=富国強兵(ふこくきょうへい)
経済=資本主義の発展とその矛盾(むじゅん)の現れ。

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「ゆらぎの日本文学」(小森陽一. 1998)よりの抜粋

日露戦争(1904-05. 明治37-38年)を通して、国民的な規模で、新聞を毎日読むという生活習慣が定着した。(p. 67) 
日露戦争で勝利した「一等国」にふさわしい新聞小説と、その書き手が必要とされた。(p. 68)
...日露戦争に勝った「一等国「にふさわしい西洋的な小説を、日々読者に提供することが、小説家夏目漱石には要請されていたのだ。(p. 72)
新聞社の側が要求する西欧型の現代小説、すなわち知的男女の恋愛と結婚をめぐるドラマを、繰り返し、読者の多様な要望にも応えながら書き続けていく。。。(p. 76)

時の首相、西園寺公望のもとに、同時代を代表する20名の文士を招待するという企画。。。いわゆる「西園寺公望文士招待会」である。時の首相が文士を招待するということは、文士達が担っている近代の文学、すなわち小説や詩や戯曲といった、欧米から輸入された新しいジャンルの作品とその書き手が、「一等国」の国民の文化として認知されたということに他ならない。しかも20名が選ばれるということは、そのこと自体において、国家が評価する文学が、1つ正典(せいてん=カノン=canon)として選別されたことを意味する。近代文学における国民的標準が、まさに選別されることによって成立させられていくのである。このことは、国民の気分感情を含めた、想像的共同性が、一つの規範として囲い込まれるということでもある。日々何に思いをめぐらし、何に感動するべきかの標準が、国家によって選定されて行く時代が到来したのだ。(p. 68)

夏目漱石が朝日新聞で連載小説を始める前、新聞小説を完全にぎゅうじっていたのは、「家庭小説」というジャンルだった。上流階級の家庭、あるときは明治の特権階級である華族の家庭をモデルにしながら、長大なテクストが、いくつも生み出されていった。たしかに登場人物である若い男女の、恋愛や結婚をめぐる物語的波乱もあるのだが、その主眼は、上流階級の衣食住をめぐる日常生活の情報が、過剰なまでの細部にわたって描写されているところにあったのである。その意味で家庭小説は、結果として、1898(明治31)年に制定された「明治民法典」に即した形の、家長に権力を集中し、女性を禁治産者のように扱うような、あるべき家庭と家族関係をめぐるモデルを、日々国民の意識に浸透させる啓蒙書としての役割を果たしたと言える。(p. 69)

「こころ」(1914年。大正3年)の「先生」は、叔父が父の遺産をごまかしたことを知って後、他人を信じることができなくなり、友人のKを裏切ったという秘密を抱え込んだまま、妻にも心を閉ざしつづける。「道草」(1915年。大正4年)は、こうした自己と他者、男性と女性との関係を、自らの過去に投影しながら確認しようとした営為だと言えるし、「明暗」(1916年。大正5年)は、いまいちど新婚の夫と妻の二者関係にストーリーを限定し、夫や妻という前提を棄ててもなお、自己と他者の間に愛情や信頼が発生しうるかどうかを問い直した試みだと言える。 
 漱石の小説は、「家」や家族を支えている性的役割分担を、ことごとく懐疑するアンチ・ファミリー・ロマンスであった。(p. 76)